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天皇及び天皇制に関する質問主意書

衆議院 第104回 第20号

提出者
衆議院
提出日
1986年4月28日
内閣転送 1986年5月7日
答弁書受領日
1986年5月13日
提出から15日
答弁の項目数
5
質問 7,004字/答弁 694字

質問本文

衆議院議長 坂田道太 殿

天皇及び天皇制に関する質問主意書

中曽根内閣は、今年が「天皇在位六十年」に当たるとして、四月二十九日に政府主催の「記念式典」を行うのを始め、さまざまな形での天皇と天皇制美化のキャンペーンを繰り広げている。

中曽根総理は、去る一月三十日の衆議院本会議における日本共産党・不破哲三議員の代表質問に対し、「天皇陛下の御在位六十年ということ、あわせて、昨年七月十三日には、歴代天皇中最長寿をお迎えなさつたということは、まことに慶賀にたえない次第であります。この天皇陛下の御在位六十年、御長寿をお祝いするというものは、これは自然な感情でありまして、天皇は元来、平和主義者であられたということは、皆さんも御存じのとおりでございます。別に政治的意図などは毛頭ないので、この自然の喜びの発露をそのまま行おうというので、疑う方が不自然ではないかと思うのであります」と答弁した。

さらに中曽根総理は、「天皇在位六十年」を「祝賀」する理由として、天皇は元来「平和主義者」であり、「戦争を回避するために全面的にも努力をされた」(衆議院予算委員会、三月八日)こと、「(天皇は)立憲君主制のもとにありまして、総理大臣の輔弼することについては、大体君臨すれども統治せずという原則でいかれた」(同)こと、「二千年近いこの伝統と文化を持つておる日本、及び天皇を中心に生きてきた日本のこの歴史」(同)などを挙げている。

これらはすべて、歴史の事実に反して、天皇の、侵略戦争と暗黒政治に対する明白な責任を免罪したうえ、もともと憲法の「主権在民」の原則とは根本的に矛盾する天皇と天皇制を不当に美化するものである。日本共産党は、この見地から既に、「天皇在位六十年」は絶対に「祝賀」の対象とすべきものでないことを指摘し、その中止を政府に申し入れてきたところである。以下、その立場から、天皇と天皇制の問題について質問する。

一 天皇の戦争責任について

一九三一年以来の十五年戦争に対する天皇の責任は、歴史の事実に照らして明瞭である。数例を挙げれば、以下のとおりである。

天皇は、一九三一年に始まる日本の中国侵略戦争の期間中、侵略軍を鼓舞激励した。一九三一年、日本軍が中国の東北地方に侵略を開始したいわゆる「満州事変」直後に天皇は、「現下ノ情勢ハ朕カ軍隊ノ精強ニ待ツコト愈々切ナルモノアリ汝将卒益々奮励以テ朕カ信倚ニ対ヘムコトヲ期セヨ」とする「勅語」(一九三一年十一月十四日)を発している。中国に対する全面侵略を開始した一九三七年には、「中華民国深ク帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構へ遂ニ今次ノ事変ヲ見ルニ至ル朕之ヲ憾トス今ヤ朕カ軍人ハ百艱ヲ排シテ其ノ忠勇ヲ致シツツアリ是レ一ニ中華民国ノ反省ヲ促シ速ニ東亜ノ平和ヲ確立セムトスルニ外ナラス」(九月四日の勅語)と述べ、日本が起こした侵略戦争の責任を中国に転嫁しながら、中国を恫喝している。

中国侵略で予定どおりの戦果が挙がらず、戦争が長期化したとき、天皇は戦争勃発時の杉山陸軍大臣に対し、「予定通リ出来ルト思フカ、オ前ノ大臣ノ時ニ将介石ハ直グ参ルト云フタガ未ダヤレヌデハナイカ」と述べ、「絶対ニ勝テルカ」(「杉山メモ」(上))と質問している。

中国に対する侵略戦争は、一九四一年、アメリカ、イギリスに対する戦争へと発展したが、この太平洋戦争を決断し、戦争を宣言したのは、天皇そのものであり他のいかなる人物でも国家機関でもなかつた。

天皇の動向をよく知り得る立場にいた当時の内閣書記官長・富田健治氏はその著書「敗戦日本の内側 ― 近衛公の思い出」で、天皇が太平洋戦争開始論に踏み込んでいく経過について、次のように述べている。

「自分(近衛)が総理大臣として陛下に今日、開戦に不利なることを申し上げると、それに賛成されていたのに、明日御前に出ると「昨日あんなにおまえは言っていたが、それ程心配することもないよ」と仰せられて、少し戦争の方へ寄って行かれる。又次回にはもつと戦争論の方に寄っておられる。つまり陸海の統帥部の人達が意見がはいって、軍のことは総理大臣には解らない。自分の方が詳しいという御心持のように思われた。従って、統帥について何ら権限のない総理大臣として、唯一の頼みの綱の陛下がこれではとても頑張りようがない」

太平洋戦争遂行の基本政策である「国策」は、天皇の臨席する御前会議で決定された。一九四一年七月二日の会議で、「南方進出の歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」るという「帝国国策要綱」を決定している。九月六日の会議は、期限つき開戦を決定した「帝国国策遂行要綱」を決定し、十一月五日の会議は、対米戦を決意した「要綱」を決定している。そして十二月一日の会議は、対米英オランダ開戦を正式に国家意志として決定した。

これらすべての決定の最終決断をくだしたのは天皇である。開戦時の国務大臣、鈴木貞一は、次のように述べている。

「戦争か、戦争をやめるかという時期の決断というものは、それは流れに逆ってピシャッとやることは、これはもう余程の力でなくてはならない、その力はね、日本には陛下以外にないんです」(勝田龍夫「重臣たちの昭和史」(下))

戦争を長引かせたのも天皇の責任である。天皇は、終戦に当たつて、和平交渉を急ぐべきであるとの周囲の意見に対して、「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」(「木戸幸一関係文書」)として、戦争継続の立場を表明した。また、一九四五年八月十四日の「御前会議」では、ポツダム宣言受諾の理由について、「国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ。毛頭不安ナシ。敵ノ保障占領ニ関シテハ一抹の不安ガナイデモナイガ、戦争を継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル。即チ、モトモ子モナクナル」(「敗戦の記録」)と、終戦の決定(総理等のいういわゆる「御聖断」)が、絶対主義的天皇制を維持するためであることを明言している。

これらの事実は、天皇が、「平和主義者」などではなく、その地位からいつても実際に果たした役割からいつても、十五年に及ぶ侵略戦争の最大、最高の責任者であつたことを疑問の余地なく立証している。

中曽根総理が天皇を「平和主義者」だとする根拠はなにか。

二 「君臨すれども統治せず」論について

戦前の天皇と天皇制を「君臨すれども統治せず」などと特徴付ける中曽根総理の見解は、そもそもこれまで質問してきた天皇の戦争責任の問題に照らしても明確に事実に反するものであるとともに、天皇の戦争責任を免罪するものである。

天皇の戦争責任問題以外にも、戦前の天皇に与えられていた絶対的権力は、総理の見解に根拠がないことを示している。

戦前の天皇制はいかなる意味でも「立憲君主制」ではなく、国家主権はもちろん、国務大臣の任免権、軍の統帥権、宣戦・講和の布告、条約締結権、立法権、議会の召集・衆議院解散権、戒厳などの権限を全面的に掌握した文字どおりの絶対主義的天皇制であつた。

天皇は、この権力を用いて、天皇が必要と考えた場合には、自らの政治意思を貫徹してきた。戦争以外の若干の諸事実を挙げると次のとおりである。

二・二六事件当時(一九三六年)の内閣総理大臣であつた岡田啓介は、天皇の執務態度について、「陛下は内閣から奏上する場合、御同意の節は「そう」とはっきり御返事なさるが、御同意でないときは黙っていらっしゃる。差しあげた書類に対しては、御同意でない折はしばらくお手元にお留めおきになることもある」(回顧録)として、このような天皇の意思表示の仕方に従つて行動するのが「輔弼」者としての大臣の条件であつたと述べている。さらに、天皇の側近中の側近であつた木戸幸一は、戦後(一九六四年)、法務省の質問に対して、「立前として天皇は国務大臣の輔弼によって国政をなさるのではあるが、時には、強い御意見を述べられることもある。(中略)天皇が御納得されない場合は、概ねの場合問題はそのままサスペンドされて決定が延ばされるか内閣の方が考え直すのを例とした」(「木戸幸一日記」)と証言している。

また、次の事実は極めて重要である。

戦前の治安維持法は、国民から一切の自由を奪い、天皇制支配を支える主柱となつたものであり、一九四五年のポツダム宣言の受諾に伴う一連の措置によつて当然、廃止されたものである。この治安維持法案は、過激社会運動取締法という名で一九二二年に議会に提出されたが、反対運動にあつて審議未了・廃案となつた。ところが一九二三年九月、現天皇裕仁が大正天皇の摂政として発した緊急勅令「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」(治安維持令)を公布した。これが十二月に臨時議会で追認され、一九二五年に治安維持法が制定された。

また、同法は一九二八年、「国体変革」すなわち「君主制の廃止」「絶対主義的天皇制の変革」を掲げる者に死刑を含む重罰を科すべく改悪されたが、これもまた、天皇の発する緊急勅令によつて行われたのであつた。このような野蛮な弾圧法を自らの意思で制定し得る権能を持ち、また実際に頻繁にそれを行使した者を、「君臨すれども統治せず」などといえないことは明白である。

中曽根総理は、これらの諸事実を「君臨」もし、「統治」もした事実として認めるかどうか、明確に答弁されたい。

三 「天皇は国民の中心」論について

「天皇は二千年間、国の中心」であつたなどとする見解は、歴史学上、明確に否定された神話である。明治以前において、天皇が実際に「政治の中心」にあつた時期がごく短期間であることは、歴史学上の常識である。明治維新前後には、天皇の存在すら多くの国民に知られていなかつたのである。

一八六八年の九州鎮撫総督の諭書が「此日本という御国には、天照皇大神宮様から御つぎ遊ばされたところの天子様というものがござって、是が昔からちっとも変ったことのない御主人様ぢや……」と述べているように、天皇の存在それ自体を民衆に教えこませなければならなかつた。

また、天皇制政府が多くの庶民の不信と不満を買つていたことも、例えば次のような、政府にあてられた「報告書」から知られるところである。

「近来の事情を洞察してみると、天下の人望は以前に異なり、道路の浮言ではあるが、王政は幕政に及ばず、薩長は徳川氏に劣るなどといわれているやに承り、誠に憤懣やるかたなし」

「今の政治のありさまではとても治世はおぼつかなく、窮民どもの暮らしはたちゆかない。旧幕政のほうがよかったというものが今や七分、残りの三分がわずかに御一新の政道をよいといっているに過ぎない」

さらに、明治維新後、神話に基づく「紀元節」を設定し「天皇は天子」「万世一系」なる宣伝が行われたが、これは絶対主義的天皇制の確立と徹底、強化のために明治政府の必要によつて急きよ作り出された特殊なイデオロギーに過ぎず、当時既にその反動的・非科学的本質を見抜く次のような見解があることも史料で明らかである。

「(天皇が天子なら)然ラバ日本挙国ノ人皆ナ天子ノ子ナルヤ、阿爺モ又天子ノ子ニシテ、阿翁ノ父ニハ非ルヤ、笑フ可キ哉」(「東京開化繁昌誌」)

中曽根総理は、いかなる事実と科学的根拠をもつて、「天皇は二千年間、国の中心」と国会で答弁したのか、所見を求める。

四 天皇批判に対する総理の誹謗について

中曽根総理は、天皇と「天皇在位六十年式典」をめぐる問題で、三月八日、衆議院予算委員会での日本共産党の正森成二議員の質疑に対して、天皇に「あえて異を立てるというものは、国家を転覆するという気持ちを持つておる人でないと出てこないのではないかとすら私は疑う」と答えている。

天皇と天皇制を批判するものにこのような誹謗を加えること自体、戦前の治安維持法同様の発想にほかならないと思うが、どうか。また、中曽根総理の論理では、今日の日本も戦前同様に、「主権は天皇にあり」ということになるが、どうか。答弁を求める。

さらに、マスコミ各社の世論調査によつても、天皇制を「廃止するほうがよい」との回答は相当数にのぼるが、このような回答者は「国家を転覆するという気持ちを持つておる人」と総理は考えるのか。

また、総理は、「天皇在位六十年」を祝わないのは「不自然」と述べているが、四月七日付「朝日」の世論調査によれば、「天皇在位六十年式典」に賛成の回答は、四一%に過ぎず、「天皇在位六十年記念式典は必要ない」とする回答が二七%、「戦時中のことを思うと好ましくない」が六%、「自分には関係ない」が二一%となつている。総理は、半数以上の日本の国民は「不自然」な人間であると考えるのか。また、総理の論理に従えば、「天皇在位六十年」を積極的に「祝賀」しないものは、天皇に「異を立てる」ことになり、結局のところ「国家転覆」の気持ちを持つていることにならざるを得なくなるが、どうか。

五 いわゆる「皇室外交」について

天皇の「名代」としての皇太子の訪韓など、いわゆる「皇室外交」が計画されている。またこれまでも、天皇・皇室自身の意思をも盛り込んだ「皇室外交」が行われ、その際天皇はしばしば政治的な言動を行つてきた。これらは、憲法の天皇に関する条項に照らして容認できないものである。

我が党は、既に政府及び宮内庁に対し皇太子訪韓中止を申し入れた。宮内庁は四月二十六日、皇太子訪韓を含め天皇、皇室の外国訪問は、政府が決定することだと回答してきた。そこで政府に対し、いわゆる「皇室外交」なるものについて見解をただす。

戦前の天皇は、「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬ス」(第四条)、「戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」(第十三条)とされ、国家元首として対外的代表であるとともに、外交権の主体であつた。

しかし現憲法は、天皇制を「象徴」の名で温存するという「主権在民」原則と矛盾した側面を残しているが、天皇の地位を「主権の存する日本国民の総意に基く」(第一条)ものにとどめるとともに、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(第四条第一項)とし、天皇の対外代表権と外交大権を明確に否定した。また、天皇の国事行為としての対外関係に関する行為も、「全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること」(第七条第五号)、「批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること」(同条第八号)、「外国の大使及び公使を接受すること」(同条第九号)という形式的な行為に厳格に限定している。しかも、天皇がこれらの行為を実際に行う際には「内閣の助言と承認」を受けなければならない(第三条)。このように現憲法は、天皇が公的で政治的な意味をもつ外国訪問を含む対外関係に関する行為を行うことを明確に禁止している。しかるに、憲法第一条の「象徴の地位からにじみ出る公的行為」などとして、天皇による「皇室外交」が展開されてきた。

しかも天皇自身、このような「皇室外交」の際に頻繁に政治的発言を行つてきた。一九七五年の訪米に際して、天皇は、さきの侵略戦争について、「開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆すことはできなかつた」などと発言した。これはたんに政治的な発言だというにとどまらず、歴史的事実に反して自らの戦争責任を回避するものである。また天皇は、この訪米直後の記者会見で広島・長崎への原爆投下は「やむを得ないこと」とさえ述べている。これ自体アメリカの野蛮な原爆投下を是認した非人道的な発言であるとともに、許されない政治的発言であることは明白である。

さらに、全斗煥大統領の訪日の際には、「大統領閣下の卓越したご指導の下に貴国が政治、経済、文化、社会等の各分野において目覚しい発展を遂げていることは、国際社会から高い評価を受けております」などと、全斗煥政権を礼賛する政治的発言を行つている。

全斗煥政権は、軍事クーデターによつて生まれた軍事ファッショ政権であり、韓国国民からもその正統性を疑われている政権である。また我が国においても、南北に分断された朝鮮半島の一方の韓国政府を唯一合法政府とする日本政府の対朝鮮政策をめぐつても強い批判があり、議論も分かれている。こうした状況のもとでの天皇のこの発言は、「国政関与」を禁じた憲法にまつこうから違反する二重、三重の政治問題への介入である。

以下、こうしたいわゆる「皇室外交」について質問する。

1 天皇自身のこのように明白な政治的発言が、天皇は「国政に関する権能を有しない」とした憲法第四条に違反することは明らかではないか。

2 天皇の「名代」による皇太子の訪韓が計画されている。皇太子による「皇室外交」は、「日米修好百年」を記念しての訪米(一九六〇年)以降二十回余に及ぶが、今回の訪韓は、とりわけ、全斗煥政権を礼賛した天皇の「名代」として行われる。韓国内でもこの皇太子訪問に反対する大きな世論がおこつている。計画されている皇太子の訪韓は、我が国の対朝鮮政策と韓国内の政治問題への介入であり、極めて重大である。

中曽根内閣は、こうした我が国及び韓国内での皇太子訪韓に対する強い反対論があつても、これを強行するのか。

右質問する。

衆議院の原文・経過

政府答弁書

一について

天皇陛下が、ひたすら世界の平和を祈念してこられ、先の大戦に際しても、回避するため全面的に努力をされ、また、戦争終結の御英断を下されたことは、大多数の国民が知るところであり、こうしたことから、天皇陛下は平和主義者であられる旨を答弁したものである。

二について

大日本帝国憲法は、いわゆる立憲君主制を採り、同憲法下においては、天皇は統治権を総攬する地位にあつたが、憲法上の確立された慣例として、天皇は、国務大臣等の輔弼、補佐に基づいて統治権を行使したといわれており、こうしたことから、「君臨すれども統治せず」と答弁したものである。

三について

長い歴史と伝統と文化を有する日本国において、天皇が国民的な連帯の中心としての役割を果たしてきたことは、大多数の国民が認識するところであり、こうしたことから、その旨を答弁したものである。

四について

日本国憲法は、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるとしている。

また、天皇陛下御在位六十年記念式典を挙行することとしたのは、天皇陛下の御在位が六十年の長きにわたり、加えるに、天皇陛下が御在世日数の確認できる歴代天皇の中で最高御長寿になられ、この歴史にまれな重なる御慶事をお祝いすることが、大多数の国民の自然な感情であることによる。

御指摘の答弁は、このようなことについての理解を求めたものである。

五について

1 御指摘の御発言は、政治的な意味合いを持つものではないから、憲法に違反するものではない。

2 御指摘の御訪韓については、これを推進する方向で検討する旨公表したとおりであるが、時期等の詳細は未定である。

右答弁する。

衆議院の原文

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